それっていったい何だったのか

私のツイッター(id:nattogohan_suki)の、ツイートしたときの気持ちを解説します。

体力Aやる気C気持ちE


「気持ちE」が好き。偏執しているといってもいいくらい好きで、類似したものをなんどもTwitterに投稿していると思う。

 過去の記事でも似たようなものを紹介したけど、今回はこういう遊びを自分がどう捉えているのかということをさっき思いついたので書く。

 

 自分は「気持ちE」のことが好きだしおもしろいと思っているが、べつに一攫千金を狙えるようなおもしろさではないことはよくわかっている。一攫千金どころか、となりに座っている会社の同僚にさえおもしろさを共有してもらえるかどうかもあやしい。でも自分にとっては確かにおもしろい。そんな感じのおもしろなのに、何年もTwitterをこういうふうに使っている。

 Twitterをやっていると、この言うなればしょぼいおもしろさ(自分にとっては大切なおもしろさなんだけど)を共有してくれる人がたまに現れて、フォロー・フォロワーの関係になることがあり、やりとりも生まれる。それはおもしろくて喜ばしいんだけど、でもよくよく考えるとそこは主目的じゃない。副産物。ゆくゆくはこういう副産物が大切なものになっていくものだし、なによりいい人たちなので、ないがしろにする気はないけれど。

 一方で、こういうおもしろがなぜおもしろいのかを分析するのもいいのだけれど、それによって最初に意図したおもしろさが増えることはほとんどない(別方向の深みが出てくることはありえるけど)。ややもすると、対象をこねくり回すことで自分がそれに飽きてしまい、おもしろいと感じる気持ちが薄れてしまう危険さえある。それだけはなんとしても避けたい。

 じゃあ自分はこの遊びをどう捉えているのかしら。DQ3の序盤で出てくるアルミラージくらいの、おもしろ界での雑魚キャラであるような「気持ちE」とか「ヤキーモ」とかいったものをTwitterに投稿し続けている、そのモチベーションや動力源は、いったいなんなのか。

 

 自分のような雑魚キャラには、自分の機嫌を取ってくれる人なんていないし、そもそも取ってもらおうとも思わないけど、機嫌を取らなくては暮らしていかれない。 機嫌よくなるためには「なんだかおもしろい」ことを「していなくては」。人によっては「自分で何かしなくても、おもしろいものを観たり読んだりしたらいい」と思うかもしれないけど、自分は「何かしたい」。

 そこで、「なんだかおもしろい」と感じるフレーズ集を「つくること」と「保存しておくこと」がたいへん大切になってくる。つくることで「何かしてる」感が出て、保存することで「あとで見て機嫌よくなる」ことができる。ここが主目的なんだろう、と思う。

 そしてもうひとつ。この遊びには、「連想」の効果がとても重要。小さいおもしろは、連想をくりかえしていくことですこしずつストーリーというか、別の意味が生まれて、長いおもしろになることもある(大きくなることはめったにないと思うけど)。冒頭に挙げた「気持ちE」も、最初に生まれたときは単体だったのに、「体力A、やる気C」と組み合わさることでちょっとした意味が追加されて長くなった。

 

 機嫌がいいとうまく連想ができ、意味が新しく生まれる。言葉遊びで種をまいておき、あとでそれをみたときに、「自分の機嫌をよくする」、「連想して意味が生まれる」という二つの効果が期待できる。小さくて狭い、間取りでいうと4畳半で共用便所くらいの感じの世界だけど、ここにエコシステムが出来上がっている。正のフィードバックループだ。

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 この遊びを自分はこうやって理解しているという話でした。

 

終わりです。